正面湯
温泉が大好きな日本人。人と温泉との関わりは縄文時代から続くと言われる。温泉と温泉地に心惹かれ、心身共に癒されるのは、何より地上に湧き出る源泉の温もりとその様々な個性であろう。そして温泉が湧き出る土地の街並みやそこで暮らす人々が長い年月を重ねて育んできた歴史と文化を丁寧に紐解くとその魅力が広がる。
湯の守り神 「由豆佐売神社」
日本には古くからいろいろな神さまがいた。田んぼの神は秋から春のあいだ、山に帰って山の神となる。水路には水の神、かまどには火の神、いろいろなところに神がいて人は神を祀り崇めてきた。大地から懇々と湧き出るお湯にも神の力が宿っていると考えたのも不思議ではない。平安時代の『延喜式』神名帳は、全国の神社の一覧を公に初めて記載されたものと言われている。その中に温泉神社が含まれ、そこには湯田川温泉の「由豆佐売神社」が記されている。※1
この由豆佐売神社の「由」は、『倭名類聚抄』に「温泉一に湯泉(ゆ)とも言い、和名由(ゆ)」と記されるとおり「ゆ」と読む。由豆佐売とは湯出づる沢の泉源地を司るヒメ(女神)を表し、由豆佐売神社は泉源の女神ユヅサメを祀る社であったとう。※2中公新書石川理夫著『温泉の日本史』由豆佐売神社が本来祀っていたユヅヒメはいつしか記紀神話の女神溝樴姫命に置き換わった。そして、溝樴姫命を主神に、少彦名命、大己貴命の二神を陪神に祀るようになった。
湯田川温泉の守り神でもあるこの神社では、毎年4月30日には宵祭、5月1日には本祭を行い、1日正午頃から湯田川温泉街などを神輿の行列があり、かつては、人々は着飾り、振袖を来て歩いたとか。神社の行事は現在も温泉街に暮らす人々の暮らしに崇敬厚く残っている。
開湯は奈良時代
湯田川温泉の開湯は今からおよそ1300年前の712(和銅5)年。温泉で傷を癒している白鷺を見て発見されたと言われている。後の室町時代に、眼を患った牛がその角で地を叩いたら湯が湧き出し、その湯に入り眼がよくなったという伝説により田の湯が発見されたと言われる。これが現在湯田川温泉にある「正面湯」と「田の湯」という二つの共同浴場となる。
「正面湯」は温泉街のちょうど真ん中にあり、湯屋の正面に立つと、破風付きの立派な黒瓦屋根が目に入る。振り返ると「しらさぎの湯」という足湯と、その脇に石畳と板塀の路地がまっすぐ由豆佐売神社へ続いている。「正面湯」の正面、温泉街を見下ろす高台に由豆佐売神社はあるのだ。「正面湯」から出てくる人を見ていると、神社に向かって一礼する人が少なくないことに気づく。ここで暮らす人たちにとって、お湯をいただいた後に感謝の気持ちを忘れずに表すのはごく当たり前のこととなっているのだ。
神社の鳥居をくぐると、その先に苔むした石段と両脇に樹齢いくばくかの杉並木が出出迎える。石段を登ると右手に樹齢1000年と言われる県指定天然記念物の乳イチョウの巨木がそびえ立つ。現在の本殿は明治15年に旧鶴岡警察署庁舎や旧西田川郡役所などを手掛けた庄内の名棟梁「高橋兼吉」に建築されたものである。
湯田川温泉には、藤沢周平をはじめ、斎藤茂吉、横光利一、種田山頭火、竹久夢二といった歴史に名を残す文人墨客も逗留している。湯田川温泉に来たら、先ず「由豆佐売神社」に足を運び、これまでのこの地の歴史に思いを馳せ、湯の神に手を合わせてみるのも良い。由豆佐売神社や湯田川温泉の歴史について詳しく知りたいときは、「湯田川音楽館ぱっころ」(※1)の2階で資料を閲覧できる。
正面湯
正面湯に入るには、滞在している旅館で鍵を貸してもらうか、正面湯から50メートルほど温泉口に戻ったところにある船見商店で入浴料(200円)を支払う。正面湯の鍵を預かってから30年になるという船見里さんが一緒に正面湯まで来て鍵を開けてくれた。
湯屋の木枠のガラス戸を開けて中に入ると、頭上に「由豆佐売神社」のお札が。脱衣所には造り付けの木の棚があるだけで、洗面台もドライヤーもない。浴場には石鹸やシャンプーの類いは一切なく、もちろんシャワーもない。あるのは椅子とケロリンのあの黄色い湯桶のみである。
それほど大きくはない湯船からは惜しみなく天然掛け流しのお湯があふれ流れている。湯田川温泉は毎分約1,000リットルという豊富な湧出量で加水、加温、循環を全くしていないという純粋な天然温泉。なんと贅沢なのだろう。熱過ぎず、肌に柔らかいお湯は気持ちよく、ついつい長風呂してしまうという。普段は地元の人の声が飛び交う浴場もこの時はこんこんと溢れる湯の音が響いていた。
湯田川温泉にお嫁に来て48年くらいという星川さん、暮らしの中に温泉は欠かせない。じぶんの家のお風呂より仕事を終えて、夕方入る正面湯での会話が楽しみという。今は、コロナで仕方がないけれど、地元の人だけではなく、外からきてくれる人との会話が楽しくて、また湯田川温泉に入りに来たいと思ってもらえたら嬉しい。そして住民の人の暮らしの中にあるこの共同浴場をこれからも守っていきたいと話してくれた。
長い歴史の中でかつては茶屋や遊郭もあり賑やかな時代もあったが、現在は落ち着いた街並みを残しながらも温泉に暮らす人々は、訪れる者に対しいつも温かく優しく迎えてくれる。湯田川を訪れたら是非ここの歴史と文化と人に触れてその魅力を掘り下げてもらえたらと思う。
※1 湯田川温泉音楽館 ぱっころ
〒997-0752 山形県鶴岡市湯田川乙72
正面湯
営業時間 8:00〜19:00
(9:00〜11:00は清掃のため入浴できません)
定休日 無休
入湯料 300円
泉質 ナトリウムカルシウム硫酸塩泉